結局、私は二年間数野さんのクラスにいて、芸大に合格できた。別の時にも書いたが、合格後すぐ「どばた」の夜間部の雑役のアルバイトを一年間引き受けたので、数野さんとはよく会った。時に居酒屋に連れて行ってくれて、自分の学生時代のことや友達のこと、絵のことなどを話してくれた。絵にはリズムが一番大事だ、という話やジャコメッティーの話などが思い出される。卒業制作は長い間描いていた絵をやめてしまって一気に短時間で描いた、という話も居酒屋で聞いた。
その後も、私を講習会の講師に呼んでくれたり、昼間部の講師に呼んでくれたりした。私は数野さんにお世話になり続けてきた。
1981年3月、長く「どばた」昼間部の絵画科主任だった数野さんが「どばた」をやめるとき、「『すいどーばた』は私の青春そのものだった」と挨拶したことが忘れられない。次の年に、私も三年半務めた「どばた」の講師をやめた。面白かったけど、心底疲れたからだ。あのような過酷な仕事を数野さんは長く続けてきたのだから、さぞ疲れていただろうと、と思う。その後は、展覧会の案内をもらったら見に行って、会えば少し話をする、といった関係が続いていた。
数野さんの絵は、一時ほとんど抽象画のようになったが、奥様のみはるさんとの結婚が契機になったのかどうか、奥様の肖像や蝉捕りの少年(息子さん?)のような人物像を含めて、野菜や瓶など、身近の事物をモチーフの中心にしつつ、骨太な構造を探求することは譲らない、という姿勢は揺らぐことがなかった、と思う。
入院治療が続いていることを聞いて、お見舞いに行こうと思っているうちに、どんどん日が経って、今になってしまった。残念でならない。
よい人に教わった幸運を改めて感謝したい。
画像:「オドビスの花」1999年