藤村克裕雑記帳
2023-09-21
  • 藤村克裕雑記帖242
  • セザンヌを見に永青文庫に行った
  •  文京区目白台の永青文庫に行った。
     家人が情報をくれたのである。永青文庫で今やってる「細川護立の愛した画家たち」展に初期のセザンヌの絵が一点出てるって、24日までだよ。
     なので、ありえないほどの残暑にもめげず、都バスの「椿山荘前」バス停に降り立ったのである。バス停から少し歩いたが、矢印のついた“標識”があって、永青文庫まで迷うことはなかった。が足取りは重かった。筋力の低下か? まずいぞ。
     チケットを買い終わると、4階からご覧ください、と受付のお姉さんが言った。エレベータで4階まで登った。
     4階会場には順路が示されていて、安井曽太郎のパレット(サイン入り)の展示から始まっていた。満州の喇嘛廟を描いた絵やデッサンや安井から細川宛の手紙など数点。中に横山大観を描いた肖像デッサンがあって、説明文に戸惑ってしまった。当時人気の画家たちが集まって、横山大観の肖像を描く会を何度か行なった、というのである。横山大観を皆で描く、その意味が分からない。安井も細川からの呼びかけに応じて参加し、きっとぶつぶつ言いながら描いて、頭部の周囲に、えいっ! とばかり緑色を塗りつけている。安井とか梅原とかになると、「古池や、、、」みたいなもので、優れているのかどうか分からなくなっている自分が悲しい。
     そして、セザンヌである。「登り道」と題されたその水彩を見たことがなかった。わざわざやってきて入場料を払っただけの値打ちがあった。横長の絵である。絵に見入ろうとしていると、私より先に入場していたと思われるご婦人同士の会話の大きな声に気づくことになった。
     たまらず声の方に目をやれば、梅原龍三郎の「紫禁城」の前で、ちょっとおしゃれをしてきた様子の三人の老婦人が、楽しそうに鑑賞ということをしている。誘い合わせての久々のハレの日で、きっと互いに耳が遠いのだろう、だからつい声が大きくなっている、と考えた。それにしても声が大きい。大きすぎる。
     大きな声で互いに感想を述べ合い、知識の“ようなもの”を披露し合い、連想ゲームも行なって、それが果てしなく続く。いわゆる“マウントの取り合い”である。堪忍してほしいが、そのうちにこの部屋から出て行って下の階へと移動するだろう、と思って我慢した。我慢したが、セザンヌの絵には集中できない。しょうがないので、絵から離れて、高見澤忠雄という人が取り組んだというそのセザンヌの絵の複製の制作過程を見たり、武者小路実篤から細川宛の手紙を読んだりしていた。
  •  1930年9月に投函されたという武者小路実篤からの手紙には、ここに展示中のセザンヌの水彩画=「登り道」について、「あの色の関係や味や複雑さは実に類がなく不思議なひとだと思ふ」「セザンヌの一生の仕事が、あの内に含まれてゐる、いいものをものを手に入れたもと思ふ」と書いてあった。「不思議なひと」というのはセザンヌのことだろう。「あの」というのは「登り道」という展示中の水彩画のことである。「いいものを手に入れた」のはもちろん細川護立であり、「もと思ふ」というのは「ものと思ふ」であろうか。そんなことを補って読んでみても、「あの色の関係や味や複雑さ」という言い回しの意味が分からない。「白樺派」の人たちは、こんなに難解な言い回しだけで互いに意思疎通を図っていたのだろうか? などと考えているうちに、三人のご婦人たちはいつの間にか展示室から消えていた。
     「登り道」の前に戻って改めて見入ってみる。
     小さな絵であるが、寸法の情報の記載はどこにもない。1867年の作品とあるので、1874年の「第一回印象派展」以前の絵である。そのことを前提にしてみると、少し見え方が変わってくる。
     当時28歳のセザンヌは、ピサロやモネ、ルノアールなどとすでに知り合っていたはずだ。必要なスケッチをもとに画室で素材を構成して仕上げていくアカデミックな絵とは一線を画していく姿勢を、この頃にはおおむね確立していただろう。戸外の光のもとで制作することを重んじ、現場での観察や感じ取り方を画面に定着することを大事にする、こうした彼らの考えのあらわれの一端が、この絵にも見てとれる。この絵も戸外で実際の風景を見ながら描いたのだろう。紙に水彩で描いているのも、戸外での描画にたやすく取り組むためだっただろう。
     紙の色は白に近いベージュ、と見た。中央の家の壁や登り坂にたっぷり塗られた絵の具の白、それらは紙の色とは明らかに異なった絵の具の白である。坂の屈曲部に与えられた「川」の字のようにたっぷりと不透明に塗られた白、それはとりわけ意志的で、ガッシュを用いたかのようにさえ見えて物質感を伝えてくる。
     陽光を受けて白く輝くかのような「登り道」。そこに帽子をかぶった二人の点景人物が与えられ、短い影を道に落としている。セザンヌは谷を隔てた手前の丘の上からこの光景を描いているのだろう。画面を支配する明るいベージュの拡がりはいかにもプロヴァンスらしい。そこにオリーブの樹々や赤い瓦屋根と白い壁の家が散在している。丘の向こうには山の連なりが青く見えて、手前のあちこちに散りばめられた青さと呼応している。屋根の赤より彩度の高い赤があちこちに配されていてこれが実に効果的だが、一体何を描いたものか分からない。分からなくていいのだが、赤い花々が咲き誇っているのだろうか。
     見れば、左側に紙が細長く付け足されている。目立たないが、左側真ん中あたりの緑の塊の凸部を画面に収めておきたかったからのように感じさせている。そのことで、登り道の屈曲の様子が強調できているようだ。
     道の手前の(画面下中央の)白い囲いが何なのか分からないが、これも分からなくてよい。坂道の動勢にギザギザの要素を加えて画面に複雑さを増している。
     なるほど、武者小路実篤の言うようにセザンヌの一生の仕事がこの絵の中に含まれているのかもしれない。

  •   武者小路実篤といえば、晩年の彼の文章について高橋源一郎が書いた文章を思い出す。こんなふうに書いてもいいの? と心配になるくらい、これでもか、これでもか、と追撃し、腹を抱えて笑える文章だった。収録されていた本のタイトルを思い出せない。拙宅のどこかにあるはずだが。
     その源一郎氏のお嬢さんの橋本麻里さんがここの副館長をしていたはずだ、と思いながら、梅原龍三郎の絵を見て、難解だなあ、と3階に降りると、例のご婦人たちが一層大きな声で盛り上がっておられて、たまらず、2階、1階と駆け降りて、トイレを借りておしっこをして、足取りはやはり重かったのだが、早々に退散した。
     帰路、彼岸花が咲いていて、茹だるようなこの暑さもそろそろ終わっていくことを実感させられた。
     帰宅して念の為に調べてみると、橋本麻里さんは今年の3月いっぱいで副館長を退かれていたことが分かった。やがて雷雨が襲ってきた。拙宅は無事だった。
    (2023年9月20日、東京にて)  


  • 「細川護立の愛した画家たち
     ―ポール・セザンヌ 梅原龍三郎 安井曾太郎―」

    会期:2023年7月29日(土)~9月24日(日)
    会場:1-1-1 東京都文京区目白台(永青文庫)  時間:10:00~16:30(入館は16時まで)
    休館日:月曜日
    入館料:一般1000円、シニア(70才以上)800円、大学・高校生500円※中学生以下、障害者手帖をご提示の方と及びその介助者1名は無料。
    主催:永青文庫

    公式HP:https://www.eiseibunko.com/index.html

    画像
    1枚目:永青文庫季刊誌 表紙
    2枚目:ポール・セザンヌ「登り道」1867年
    4枚目:永青文庫美術館外観
  • [ 藤村克裕プロフィール ]
  • 1951年生まれ 帯広出身
  • 立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
  • 1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
  • 1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
  • 内外の賞を数々受賞。
  • 元京都芸術大学教授。
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