なんだか、よく見る名前の人だが、正体不明のままにしてきてしまった。なので、練馬区立美術館に出かけたのである。晴天の土曜日。
上唇を思い切り前に突き出しながら「ジュン」と言うと、田中邦衛の真似ができる。その「ジュン」を演じていた吉岡某という子役が、いつの間にか大きくなって(年齢を重ねて)、先週NHK朝ドラ『エール』に登場していた。古関裕而作曲『長崎の鐘』誕生をめぐる話であった。吉岡某が演じたのは、長崎で原爆病に苦しみながら執筆を続ける医師。モデルは永井隆。その永井隆が書いた『生命の河 原子病の話』や『長崎の鐘』を出版したのが式場隆三郎だったなんて、知らなかった。が、これは彼の「正体」の一端にすぎない。
他にも「正体」の一端が展示を通じて次々に示されるのである。
岸田劉生に表紙を描いてもらって同人誌を作っていた、とか、柳宗悦の木喰調査を手伝っていたとか、雑誌『月刊・民藝』を編集していた、とか、マルキ・ド・サドの紹介者だった、とか、日本のゴッホ受容を主導した、とか、山下清の“プロモーター”だった、とか、草間彌生をごくごく初期に見出して応援した、とか、性教育=「イット解剖学」に熱心だった、とか、実は精神科医で病院を経営するばかりでなくホテル経営にまで乗り出した、とか、私が知っていたのは『二笑亭綺譚』の著者だということくらいだったけど、生涯で二百冊の本を描いたらしい。好奇心旺盛で使命感に燃え、実に勤勉だったのであろう。
事ほど左様に多彩な活動を繰り広げたかのようだが、実は、精神科医としてその問題意識が通底している。
学生時代の克明なノート、学位論文『新潟市小学児童ノ知能基準並ニ劣等児童ノ精神病学的観察』、ゴッホへの並並ならぬ関心と研究、山下清との併走、八幡学園との関わり、マルキ・ド・サドへの関心、「特異児童」や脳病院入院患者の作品の収集、などなど。これらは精神科医ゆえの取り組みだろうと見た。好事家とは違う。
それゆえ、『仮面の告白』発表直後の三島由紀夫が式場宛てに実に真摯な手紙を書いていたことも納得できる(その手紙も展示されている)。二人のその後のビミョーな関係の変化も暗に示す展示になっていて、覗き趣味さえも掻き立てられる。
一方で、白樺派や民芸運動との繋がりを保持して、式場自身がバランスを保っていたようにも見える。そう見れば、国分一太郎が提供したという昭和12〜13年の山形県の尋常高等小学校生徒の「想画」を大切にしていたことも理解できる。私は「想画」というのを不覚にも今回はじめて知ったが、随分以前、山形市の県立博物館だったかで同じような児童画を複数見たことを思い出した。その時、山形というところの文化の厚みのようなものを実感させられたのも思い出した。
つづく→
画像上:自身の磁器コレクションを眺める式場三郎
画像下:式場隆三郎編(表紙画・岸田劉生)『アダム』第2年第1号