EUからついに離脱したイギリスに、かつてサッチャーという首相がいて、「鉄の女」と言われていた。現代日本の彫刻家・青木野枝氏もまた「鉄の女」である。一貫して鉄で制作を続けている。
だいぶ前のことだけど(いつだったかわかんなくなってる)、分厚い大きな鉄板を溶断して繋いで紙工作の恐竜みたいな形状のムッチャ巨大な青木氏の作品と逆光で出くわしてびっくりしたことがあった。同じような作品は何度か発表されたと思うが、分厚くて大きな鉄板の重さや硬さの感じ、その先入観を、お手軽な工作感覚ではぐらかしている様子が実に面白かった。作るのはさぞ大変だったろうに。
また、これもいつのことだったか記憶が定かではないが、たしか長野でやったアート・フェスティバルの時、いろんな人たちの作品を八王子に一旦集める作業を手伝ったことがあった。運ばれてきて置かれていた青木氏の作品を移動するので軽トラに乗せようとした時、見かけの軽快さに反してとっても重く、私一人では持ち上げるのが無理だった。この時もびっくりした。鉄でできているんだから当然といえば当然だったんだけど。
ともかく、青木氏の作品にはよくびっくりさせられてきた。最近だけでも、何年か前のあいちトリエンナーレ、自由が丘の黒田悠子さんのギャラリー(gall-
ery21yo−j)、どれも、迫力満点だった。場全体をやすやすと変容させてしまっていた。ほんとは「やすやす」なんてもんじゃなくて、ものすごく大変なんだろうが、その「大変さ」を微塵も感じさせないのが青木氏のすごいところだ。以前、黒田さんのギャラリーが銀座にあった頃、青木氏の作品を見て、思わず「絶好調だなあ!」とつぶやいてしまって、黒田さんに聞かれて恥ずかしかったこともある。地方に出かけた時など、思いがけないところで青木氏の作品に出くわすことも度々ある。
とはいえ、美術館での幾つもの大きな個展(国立国際美術館、目黒区美術館、豊田市美術館・名古屋市立美術館、長崎県美術館、鹿児島県霧島アートの森)を私は見てきていない。今回は見逃さないぞ、と気を引き締めて出かけた。
ホールに2点。二階会場に6点。他にドローイングや版画。いずれも見応えがある。
ホールに展示された『立山/府中』(2019年)は、青木氏にしては薄手の鉄板を直線状に細く溶断した“線材”で作った枠、というか、台というか、そこにたくさんの石鹸を重ねて針金で結わえたものを20本立てて置いている。石鹸というのがやはり意表つくが、使い込まれたその色や形状と繊細な枠とのコンビネーションが面白い。
もう一つの『霧と山-Ⅱ』(2019年)は二点1組、床に鉄板を溶断して作った輪、そこから5本の“足”が上方に伸びて小さな輪を支えている。6メートルほどあろうか。隙間だらけの背が高い作品だ。内部には上方に縦に長い半透明の樹脂製の波板がごくわずかに傾きながら下がっている。このように近年、鉄だけでなく他の素材が持ち込まれてきている(鉄が姿を見せず石膏だけで作られる場合もある)。
それだけではない。“足”はそれぞれ薄手の鉄板を直線状に溶断して作られている。当然、既存の鉄板では長さが足りない。だから何本かを溶接して繋いでいる。その直線が上方の輪に向かって傾きながら伸びていくのだが、厚みと幅が異なっているので、目の位置が動けば“足”どうしの関係、その見え方が変化していく。それは、彫刻の醍醐味、といっていいだろう。
彫刻の醍醐味、と言えば、「丸」や「弧」=弓のような溶断された“単位”を相互に繋ぐ青木氏の作品は編み物や織物のような印象さえも引き出して親しみやすいが、いつも彫刻的な配慮がなされていることを見逃せない。インスタレーションのような様相を呈する場合でも同様だ。そここそ、青木作品の見どころだろう。
つづく→