本屋で見つけてためらわずに購入したこの雑誌の特集の中の藤本和也・足立守正「名作の解読法—「ねじ式」を解剖する」にびっくりした。
つげ義春「ねじ式」を説明することはあるまい。その「ねじ式」の中のじつに印象的な複数のコマが写真をもとにして描かれていることを、そのもとの写真図版と出典を示しながら“解剖”している。よく調べたものだ、とびっくりすると同時に感心させられる。
同様のことを、かつて経験した。あれは確か『批評空間』という雑誌だったと思うが、ロザリンド・クラウスという人の「主の寝室」という文章が翻訳されて掲載された時、エルンストの「主の寝室」などの作品に利用された、もとのイラストの図版が示されていた。それは、確か教材用のカタログの1ページからのものだ、ということだったと思う。え、こんなところまで調べるの? す、すごい、とびっくりしたし、感心したのだった。
その雑誌は確かウチのどこかにあるはずだけど、行方が分からない。だから、確認できない。ということは、ないのと同じである。
同じなのだが、その時は、この高名なアメリカの学者・批評家が、必要となれば、当時の人知れぬ程の教材カタログの図版の現物をも探し出してしまうことに心底おどろかされたのだ。
しかし、やがて、エルンストのコラージュ作品を集めた本があって、そこにエルンストのコラージュ作品の素材となった全ての現物のデータやその図版が示されていたのを知るに及んだ。その時、ちょっと拍子抜けしてしまった。あれま、ロザリンド・クラウスは自分で探したんじゃないんだ。
でも、いいのだ。というのも、ロザリンド・クラウスのその文は、「主の寝室」というエルンストの作品がコラージュではなく、ある教材カタログの一ページの中の複数の図像のうちエルンストにとって不要な図像を絵の具で塗って“消し”そこに床と壁を描き込んで作られたものだ、という指摘から論を展開したものだったはずだった。肝心なのはその先なのである。だから、ロザリンド・クラウスが自力でもとのカタログを探し当てていなくても、別にかまわない訳である。エルンストのコラージュは、じつはオーバー・ペインティングから始まった、その意味するところは? というところこそがその文の重要なところだったのである。しかし、その肝心の論の展開の内容をほとんど忘れてしまっている。ということは読んでいないのと同じなのである。資料を保管してあってもどこにあるか分からないのでは、ないのと同じだし、読んだことは覚えていても読んだ内容を忘れてしまっていては、読まなかったのと同じになってしまう。こういう事態に繰り返し直面しながら、たまってしまった資料の山にアップアップしている。というか、もうとっくに資料というべきではなく、物体というべきだろう。
あ、話が逸れている。ロザリンド・クラウスが探し当てたのではなくても、エルンストのコラージュ作品の元ネタをすべて探し出してしまった人(たち)はいるわけで、これはこれですごいことに変わりはない、と言いたかったのだ。つづく→