いつ頃からか、ミロが好きだ。どんなミロも好きだけど、とりわけ『農園』は、写真図版でもう泣きそうになる。本物は今ワシントン・ナショナルギャラリーにあるらしい。私はアメリカ大陸に行ったことがない(行きたい)。
この絵をミロから買って持っていたのは、あのヘミングウェイだ。じつにかっこいい。
『農場』の写真図版はいつでも見たい。だから、古い画集をバラバラにして得たものを、仕事場の何処かにずっと置いてきた。もう黄ばんだ図版だが、時々手にとって没入し、時間を忘れ、ため息と一緒に“こちら側”に帰ってくる。
何度見ても、見るたびに、黄橙に寄った茶色(=黄土色)と青との対比、そこにベージュと黒とが参入している、そういう“舞台”で展開するディテールがすごい。細密に描いてあるからすごい、と言っているのではない。細密に描くだけでいいのだったら、そんなことは、私にだってできる。そうではなくて、画面の中の全てのものが「これ以外にない!」というまで単純化、というか独自の様式の形状に至ったところで配されている。単純化、それがすごい。だから、複雑なことができる。
青い空には灰白色の満月が浮かんでいる。だから、夜の光景、と受け止めていいだろう。月明かりの中の農園はミロが親しんだ農園である。土、小石、トウモロコシ、多肉植物、樹木、切り落とした枝、ジョウロ、バケツ、桝、樽、桶、新聞紙、トカゲ、カタツムリ、鶏、兎、山羊、鳩、ロバ、荷車、倉庫、小屋、水場、通路、足跡、空、月、などなど。
激しく吠える犬、水場で洗い物をする女性もいる。
ロバが繋がれてぐるぐる回って作動させる大きな装置は地下から水を汲み上げるためのものだろうか。両腕を広げて蹲踞している小さな謎の裸体像。さらに、空中を舞っているかのような瓶。
これは一体なんだろう、というものもある。樹木の根元の蹄のような白い形状、その周囲の黒い丸、そのすぐ左下の茶色の幾何形態、その下方の黒い色面といったものがそれだ。画面にメリハリを与える構成上の必要性を伴ったもののようにも見えるが、それだけではあるまい。
描かれた全てのものには陰影も暗示されているが、光源は明らかではなく、それぞれ不思議な光を放っていたり、光を飲み込んだりしているかのようである。線遠近法も統一されていない。兎や鶏やヤギのいる金網での囲いは部分的に暗示されているだけである。説明は排除されているのだ。
見ていて飽きることがない。どこまでもミロの「愛」が伝わってくる。手触り、匂い、重さ、などまでも。
例えば中央の樹木の幹や倉庫の壁の表現はどうだろう。これらは、この幹や壁に何度も触って、その感触を記憶の奥深くに保持し続けている人だけがたどりつけた表現ではないだろうか。
『農場』は1921〜22年の作。ミロは二十代の終わりに差し掛かっている。「スペイン風邪」が大流行してから3〜4年後。昨今の状況下で感じさせられることも多々生じてくる。
そんなわけで、先日、仕事場を片付けていて出てきたものがあった。コピーの束だった。忘れていたが、私の手元の『農園』の図版を事務用のコピー機で原寸に拡大してみたことがあったのだ。業者に依頼したのではベラボーなお金を要するので、自分で計算して手元の図版を分割し、拡大コピーを繰り返したのだった。ちょっと忙しかった時期で、それらの成果品=原寸大「部分」を繋ぎ合わせる作業を先送りして、そのまま忘れていた。この際、これらを相互に繋いで原寸大の『農園』を見てみようと思った。132×147cmになるはずだ。
結構めんどくさかった。でも一応できたので、原寸大コピーの『農園』をリビングの壁にとめてみた。『あべのますく』の下方になったし、シワだらけだし、色はひどいものだが、雰囲気はつかめるはずだ。
大きな絵だ。でも、公募展や大学の卒業制作ほどではない。
すごいぞ。
目が覚める。
コピーでこんなにすごいのだから、ああ、本物を見たい。
画集の図版だけでは分からないことがある。動物小屋に豚が顔を出しているのを見つけてびっくりした。その下方にも驚いた。壁の汚れや痛みが表現されているのだが、山羊や兎や鶏が“汚せる”高さの範囲に描かれているのだ。ミロの冷静な観察力が伝わってくる。
見ることは面白い。リビングがコピーの『農園』に支配されている。『あべのますく』に目が行かない。
(4月30日、東京にて)