「外出自粛要請」以前の、多分、三月はじめくらいから、家の外に出ることが極端に少なくなった。もちろん“コロナ”のせいである。ウチにはもうすぐ99歳になろうとする元気な年寄りがいるので、リスクを避けざるを得ない。
おいおい、お前も立派に年寄りだろ、と突っ込んでくる誰かの声が聞こえてくる。ま、確かに。
近頃は、ずっと仕事場を片付けている気がする。なんとなく落ち着かないのだ。
さしたる活動をしてきたわけでもないのに、仕事場にはいろんな物がごった返している。それらの塊を少しずつ掘り崩して、いる/いらない、と仕分けし、「いる」ものを大まかに分類していく。
パッ、パ! とやればいいのだ。“コロナ”の餌食にならないですませることができたとしても、私の残りの時間は限られている。それはわかっているのだが、出てくるメモや印刷物に目を留め、つい読みふけったりして全然片付かない。捨てる決断がなかなかつかないし。足の踏み場がなくなってもう数日経ってしまった。それでも頑張って続けている。
“断捨離”の本や“ミニマリスト”の本が数冊出てきて苦笑した。もちろん、これらは「いらない」の方に仕分けした。
昔の「ルドン展」の図録が出てきた。ページを繰って、つい見入ってしまって、どれもルドンだなあ、としみじみ思った。どの絵も見事に「ルドン」という「キャラ立ち」をしている。なぜこんな「キャラ立ち」が成立できるのだろう?
これは分析する価値がある、と少しカビの臭いのする図録の図版を頼りに考えてみようとしたが、すぐに諦めた。私にはムリだ。
「ゴッホ、ゴーギャン、ボナール、スーラたち展」という全く記憶から消えていた図録も出てきた。これが、面白くて、また見入ってしまった。「新印象派」「ポン-タヴェン派」「フォラン、ロートレック、ゴッホ、ルドン」と括ってある。スーラの「ポーズする女たち」の習作のカラー図版が素晴らしい。つい没入させられてしまった。ここでも「スーラ」という「キャラ立ち」問題が顔を出すが、無理やり抑え込んでしまった。私の力量でこれを解明するのは無理なのだ。
一息ついて図録を閉じたら裏表紙に100円と表示した“シール”が貼ってあった。いい買い物をしたこともあったわけだ。これが100円だ。信じられない。
こんな調子ではかどるはずがない。それでもとりあえず、パンパンになるまで詰め込んだ大きいサイズのゴミ袋三つ(紙類はずっしり重い)、新聞紙や印刷物、ボール紙・段ボール紙をそれぞれ紐で結わえた大きな束が六つ、これらを二回に分けて家の前に出した。無事に収集車が持って行ってくれた。このご時世で、ありがたさが身に沁みる。
そんな中、オルセー美術館を特集していたNHK・TV『日曜美術館』をみていたら、ゲストで登場した女優の小林聡美さんが、マネの「オランピア」について、驚くべき発言をした。モデルの女性の髪がここに描かれている、と背景の色面を示したのである。モデルの左肩上方、リボンの下方。
え? ほんとに?
あ、ほんとだ! 今まで全く気がつかないでいた。
ショートへアだと思い込んで、“ボーイッシュ”と感じていた「オランピア」のモデルの印象が一変してしまった。
小林聡美さん、すごい!
こうして、TVで絵の見方を教わった。
絵は細部まで疎かにせず筆触一つ一つさえ注意深く見るべし。
そういえば昔、似たようなことがあったのを思い出していた。ホルバインの「大使たち」という絵のこと。床に妙なものが描かれているあの絵だ。「妙なもの」がドクロのアナモルフォーゼだということを何かの本で読んで知った。画集の図版を傾けて片目で見ると確かにドクロが描かれているのがわかって、とてもびっくりした。ところが、びっくりしただけで満足して、何故そんなことをした? という問いを抱くには至らなかった。私は鈍い。
別の時、別の本で、この「大使たち」という絵の左上方の隅に小さく十字架のキリスト像が描かれていることを知った。ホントかな、と画集で確認してみてまたもびっくりした。確かに描かれていたのだ。
全く気付いていなかった。何度も図版で見入ってきた絵だったのに。実物だって見たのに。どうして自分の目で画面隅のキリスト像に気付かなかったのだろう。
この時はとても恥ずかしかった。図版ひとつすら自分の目でロクに見てこなかったわけだ。
絵は隅々まで目を凝らして見るべし。
その画面隅のキリスト像のことが書いてあった本がさっき出てきた。苦々しい感情が蘇る。片付けはまだまだ終わらない。
(2020年4月18日、東京にて)