先に「お正月に飽きた」なんて書いたので、きっとバチが当たったのだ。インフルエンザに罹ってしまって、十日間程を棒に振った。
気がつけば、「辰野登恵子 オン・ペーパーズ」展の会期末がついそこに来てしまっていた。これを見逃すわけにはいかない。
慌てて新宿から湘南新宿ライン大宮行きに飛び乗って浦和で乗り換え、北浦和・埼玉県立近代美術館にたどり着いた。
私は辰野さんの作品を比較的見続けて来たほうだ(と思う)。
学生時代、確か銀座・みゆき画廊のグループ展で見たコクヨの集計用紙を写真製版してわずかに手を加えながら刷った作品はとってもカッコよかった。とはいえ、その作品で「辰野登恵子」という名を知ったわけではなく、すでに名前と顔は知っていた。
というのも、私が通っていた学校の油画科では、当時、学部二年生で版画か壁画かどちらかを選択して実習することが必修になっていた。私は版画を選択し、銅版画とリトグラフとを実習したのだったが、リトの製版を一旦終えて試刷りをした時、なんと、版に紙がベッタリ貼り付いてしまったのである。私にしては珍しいくらい繊細な調子を丁寧に作り上げた版だった。調子が潰れてしまう! 私はパニックになった。
その時、教室には講師も助手も院生もいなかった。私はすぐ教官室に助けを求めた。教官室には、机に向かって熱心に何かやっていたポニー・テールの女性が一人だけいた。訳を話すと、その人はプレス機のところまで来てくれたが、一瞥後、こう言ったのである。
どうしてこんな風になっちゃったの? 私には分かんないわよ。自分で何とかして!
私はボーゼンとその人を見つめるしかなかった。
その人はクルリと私に背を向けて教官室に戻ってしまった。
ひとり残された私は、恐る恐る版から用紙を剥がし、版を掃除した。当然のように、数日かけて苦労して作った全ての調子は潰れてしまっていた。情けない思い出のひとつ。
長くなった。
その女性が「辰野登恵子」だった、という話である。
で、この「オン・ペーパーズ」展には、「辰野登恵子」を再確認した件のコクヨの集計用紙のシリーズの作品も展示されていて、とても懐かしかったが、あれからずっと、亡くなる前の銀座・資生堂ギャラリーでの個展まで、折に触れて辰野さんを見続けて来たわけである。その中には、竹橋の国立近代美術館での個展、六本木の国立新美術館での柴田敏雄氏との二人展のような大掛かりな展覧会もあった。亡くなってからも、宇都宮市美術館での特集展示など、辰野さんの制作活動の流れを概観できる好企画があった。思いがけない美術館で常設展示の辰野さんの作品にまみえることもたびたびある。辰野さんはスターなのだ。
今回のこの展覧会もまた、紙での仕事(ドローイング、版画)に焦点を当てながら、辰野さんの問題意識の流れをよく示し得ていた。もう少し早く訪れていればここに紹介できて、ぜひ、とお勧めもできたのに、と悔やまれるが、今度の日曜日(1月20日)が最終日である。訪れることができなかった人は、いかにも残念、という以外にない。しかし、必ず、次の機会があるだろう。
この展覧会で私が強く惹きつけられたのは、グリッドやストライプのシリーズを経ながら、そこから展開しようとする苦闘の様子である。とりわけ油絵の大作『WORK 80-P-16』と『WORK 80-P-18』(いずれも1980年)は素晴らしい。この作品は今までも何回か見ていたはずなのに、正直、こんなにいい作品だとは思っていなかった。不明を恥じざるを得ない。シルクスクリーンの「WORK 80-N-1」などのシリーズが一緒に並んで、油絵具での苦闘の意味がより明らかになっている。この作品がその後の展開を可能にしたとさえ言えるだろう。会場に置かれた刷物に、この作品を巡って、次のような辰野さんの言葉が引用されている。
「色の持つイリュージョンだけを頼りに、とにかく筆を重ねました。溶き油で溶いたおつゆ状の絵具を何度も重ねて、ナイフでごっそり削って、はがしながらテクスチャーを出して、そうやって1年くらいかけて描いた作品です。実在感を持った絵画、ただそこにあるだけで他になんの意味も持たない、しかも特異性を持った絵画空間を作り出したかった。そのために は、とにかく描くしかなかったのです。」
堂々たる取り組みである。
ここに見るように、辰野さんはいつも真摯に絵と向き合っていたことが展覧会全体を通してよく伝わってくる。才能も豊かだっただろうが、人一倍の努力を惜しまない人だったのである。早く亡くなったのが、いかにも残念だ。
(2019年1月18日、東京にて)
画像(上)work-80-p-16 1980年油彩、カンヴァス
画像(下)work-80-N-1 1980シルクスクリーン、紙