樹々は若葉を大きくし、たんぼに水が張られる、そんな季節になった。東京と京都とを頻繁に行き来して仕事していた時、新幹線の車窓から垣間見るこの季節のたんぼの景色が大好きだった。
原口典之さんの「オイルプール」が東京・中野・Plan-Bに設置される、との情報を得て、田中泯さんがそこで三晩だけ踊るという最初の日に出かけた。手続きを終え、会場に入ると、原口さんの「オイルプール」が階段状の観客席以外の床全面に設置してあった。明らかにPlan-Bのためだけに作られた「プール」。会場は照明が抑えられて暗い。「プール」の枠の高さ数センチ。直角の四隅。その中にエンジンオイルの廃油が張られていた。大きくて真っ黒な四角い“絶対水平面”。そこに、会場が逆さまに全く歪みなく映っている。オイルの匂いがしている。
席を得て座り、もう一度「プール」を見ると、左手奥、扉のある壁際のわずかに残った床面のところに、すでにもう泯さんが控えているのに気づかされる。こちらに背を向けて、両方の膝をほんのわずかだけ折って立ち、腕を抱え、うつむいて、じっとしている。紺のトレーナーのような長袖、膝のところで切られたジーンズ。
出入りする観客などからの物音が絶えない。会場は落ち着かない。女性の係員の的確な誘導が続く。泯さんは微動だにしない。
突然、視界が真っ黒になる。原口さんの「プール」の油面の真っ黒と対比されたかのような水平も垂直も奥行きも位置もない「真っ黒」の広がり。照明が完全に落とされたのだ。それは分かっている。いるが、そんなこととは無関係に「真っ黒」を見ている。会場外の道路を走る車の音がかすかに聞こえる。
しばらく目を凝らしていると、泯さんがいたはずの少し後ろあたり、「真っ黒」の中に小さすぎる点が一つ、かすかに見える気がする。あそこに何かあっただろうか? 思い出せない。あ。ほんの僅かずつ、徐々に徐々に明るくなっている。やがて泯さんの姿が見えてきて、会場の照度が確定する。しばらくすると、泯さんはゆっくりゆっくりと観客の方に体の向きを変え、そのあと、左手を右肘に添えたまま右手をゆっくりゆっくりと甲を上にして前方に伸ばし、肩の高さほどまで上げて、降ろし、体の右側をすぐ横の壁に少しずつ少しずつ預けるようにしていく。泯さんは髪を短く刈り込んでいる。体の右側を壁に預けながら泯さんは膝を次第に深く曲げていき、「プール」のヘリに両方の手をかけて、両方の膝を右から左、順に床につけて四つん這いになる。泯さんが右手の指先を「プール」のオイルに浸し、続けて左手指先も浸すと、「プール」の表面に映った泯さんと実際の泯さんとが合体してひとつの輪ができ、やがて二つの頭がその輪の中央へと移動しはじめ、わずかな接点でひと続きになる。泯さんは「水平」に挨拶をしているのか、「水平」を飲もうとしているのか。
頭を上げてふたたび顔がふたつになった時、顎や口元にオイルが付着している。そして、右手、左手と「プール」のヘリから上げた両手からは指先がなくなっている(ように見える)。
このように無音の中で始まった泯さんのおどりは、四つん這いでゆっくりと「プール」の中に進みながらさらに続いていく。
泯さんは、体の右側を「プール」に浸したり、起き上がったり、壁に背中を預けながら座ったり、仰向けになって両手両足を上にあげたり、後頭部を「プール」に浸したり、立ち上がったり、ナンバの動きで体を開いたり・・・、と、ゆっくりゆっくりおどりを進めていく。いつの間にか音楽が介入している。照明が巧みに変化する。
泯さんの姿はたえず油面に映っていて、実像と虚像とが時に一体になったり、入れ替わったりする(ように見える)。加えて、照明具からの光が、泯さんに明暗の強いコントラストを作り出し、泯さんのからだの影を壁に投じたりもする。泯さんのからだが移動し動いていくたびに、油面にはかすかな波の揺らめきが生じ、その波紋からの反射が壁に投影して輝いては消える。オイルに浸った泯さんの衣服や体から雫が垂れる。その繊細な波紋の反射もまた壁に輝く。「オイルプール」の波紋は水の波紋とは違ってすぐに消えてしまうから、壁への反射も現れては消えていく。後ろ向きに座ってうつむいていく時の泯さんの背中にはオイルにまみれた衣服の布がぴったりと貼り付き、鍛え上げられた泯さんの筋肉の起伏を黒々と輝かせる。四つん這いの姿勢では胸辺りから下方に垂れ下がる衣服の布がブロンズ彫刻のようである。これら全てが絶えず油面に歪みなく映っている。油面の虚像は完全とはいえ、雫や泯さんの動きで生じる波紋で手元や足元などに僅かな揺らめきを生じさせては消え、入れ替わっていく。