「町田市三輪2036」は、知る人ぞ知るあの「アトリエ・トリゴヤ」の所在地である。
小田急線・鶴川の駅から鶴見川に沿って歩き、車の行き来が多い通り(調べるのが面倒で、通りの名前がわからない)に行き当たったら右折、どんどん坂を登っていくと、やがて右に神社、そしてさらに坂を上り詰めたあたりの左側に道があるのでそこを左折し、右側を注視しながら少し進めば、下方に異様な佇まいの“建物群”が目に飛び込んでくる。それが、1982年に、多摩美大大学院を終えたばかりの若者たちによって創設された「アトリエ・トリゴヤ」だ。
“建物群”と書いたが、正確に書けば(打ち込めば)向かって左側の奥に伸びる一棟と、その左側奥の一棟とが「アトリエ・トリゴヤ」である。他の”建物”は、「アトリエ・トリゴヤ」のメンバーとは別の人達が、別の用途・別の目的で使っている。
「アトリエ・トリゴヤ」という名前から分かるように、もともとここは鶏小屋=養鶏場だった。想像するに、廃業したこの養鶏場を見つけた若き美術家たちが、俺たちのこれからの仕事場はこういうとこがいいんでないかい、と(北海道弁の人がいたかどうかは知らないが)ともかく家主と交渉して、めでたく入居できたのだろう。創立メンバーは、彫刻専攻だった者が三人、絵画専攻だった者が三人だったという。ともかく、彼らにとっては、雨露を凌ぐことができて自由に使える広いスペース、これを確保することが何よりも大事だったのである。
以来、40年以上の間、多少のメンバーの入れ替わりはありながらも、このスペースは彼らの制作の場として、道具や素材や作品保管の場として使われてきた。創設当時からのコアなメンバーは今も健在で変わらないのだが、近ごろはここに若い人たちが加わって、この共同アトリエの雰囲気にも若干の変化が生じてきていた。
加えて、創設時からのメンバーの一人(=大村益三氏)のスペースを、一人の若い男性作家が、ここをギャラリーにする、と言って、せっせと片付け始めたのである(もちろん大村氏の了解、協力を得てのことであろう)。さらに、実に楽しそうに床や壁などに手を入れて(コアなメンバーの一人=吉川陽一郎氏の手助けも得ながら)展示スペースとするべく少しずつ整えていったのである。やがて、そのスペースは「ナミイタ=Nami Ita」と名付けられた。
この「ナミイタ=Nami Ita」の主宰は東間嶺氏。元々は絵画を専攻していたというが、今は写真を撮り、巧みな文章を書く。最近では話題の展覧会のレビューの仕事にも取り組んでいるので、ご存知の方も多いのではないかと思う。東間氏も多摩美出身なので、多摩美で講師だった「トリゴヤ」メンバーの大村益三氏や吉川陽一郎氏、池谷肇氏のある意味では“教え子”である、とも言える。「ナミイタ=Nami Ita」の名は、もちろんこの”建物”の”表皮”であるトタンの“波板”に由来するだろう。
「ナミイタ=Nami Ita」は、「大村益三展」を皮切りに、2021年4月10日に活動を開始した。以来、昨年末の「矢野紗季自主企画個展『1人2存3塁4家5時6葉』」(12月8日〜12月25日、ただし金・土・日・月のみ)まで、ほぼ1ヶ月に一人の作家の展示を着実に実現させてきた。新型コロナ・ウィルスの蔓延による緊急事態宣言など、思いがけない事態に見舞われながら、展示の情報をSNSを巧みに用いて告知し、また報告してきた。あわせ、展示の見物のために「ナミイタ=Nami Ita」を訪れた観客に手渡す“お土産”(フライヤー、資料、グッズ、吉川陽一郎制作の木版画など)のアナログ・グッズも用意して、サービスというかアーカイブも怠らなかった。私が、近年、数多く何度も通ったスペースはもしかしたら「ナミイタ=Nami Ita」だったかもしれない。少なくとも竹橋・東京国立近代美術館などよりは数多く訪れてきた(はずだ)。全く私の知らない人たちが、手作りの展示スペース=「ナミイタ=Nami Ita」だけでなく「アトリエ・トリゴヤ」周辺のスペースを使って思い思いに展示発表に取り組む様子は、あまり他では出会えないものだった。つい最近も矢野紗季という若い作家のパワフルな展示を楽しんだばかりだった。
ところが、、、である。
昨年末=2023年12月29日朝、「アトリエ・トリゴヤ」と「ナミイタ=Nami Ita」は、こともあろうに火事で焼けてしまったのである。別棟の”建物”近くからの火が、別棟はもちろん、さらに「トリゴヤ」、「ナミイタ=Nami Ita」に延焼したのである。
別棟の一部を駐車場にしていた人が、朝、ゴミを焼こうとして”焚き火”をして、その”焚き火”が火元になってしまった、ということのようだ。その結果、別棟はもちろん全焼、「アトリエ・トリゴヤ」の多くも(だから「ナミイタ=Nami Ita」ももちろん)焼けてしまった!
私がそのことを知ったのは美術家・近藤昌美氏によるSNSへの投稿からだった。びっくりして調べてみると、すでにTV のニュースでも報じられていたのが分かった。
ニュース映像の冒頭は、激しい火柱のアップから始まって、私は、ひえーっ!!、、、、と思ったのだったが、通報で駆けつけた消防隊の大活躍によって、周囲の民家などへの延焼は免れ、また一人の怪我人もなかった、という。それは何よりではあったが、「アトリエ・トリゴヤ」や「ナミイタ=Nami Ita」は、大変なことになっていたのである。
東間氏が送ってくれた写真には、「ナミイタ=Nami Ita」が使っていたスペース(=大村益三氏のスペース)や、「トリゴヤ」メンバーの共用のサロンスペース(リビングのようなスペース=「憩いの間」)などは原形をとどめないくらいに焼けてしまっており、類焼を防ぐためだろう、「アトリエ・トリゴヤ」の“建物”の屋根部の中央や、壁の“表皮”はどんどん剥がされて、構造体のアングルが剥き出しになっているのが見てとれた。“建物”内部に置かれていた作品や各種素材、道具類の大半は黒焦げになってしまったように見えた。たとえ、火で黒焦げになることから逃れていても、全ての物品は放水で水浸しになっただろうから、もう使い物にならないかもしれない。
私は絶句してしまった。だって、この火事で「トリゴヤ」メンバーの40年間以上の作品群が失われた、ということだから。
美術家にとって、突然、自分の全ての作品が失われることのダメージは大きすぎる。
私は、いまだに、彼らにどんな言葉をかければいいか、全く分からない。
が、SNSから伝わってくる彼らの姿は気丈である。30日の現場検証が終わって、規制線が解かれると、彼らは直ちに現場に足を踏み入れ、状況を確認し、ともかく、まずはきちんと片付けて、焼け焦げた作品や物品などを処分場へと搬出し、現場を構造体(=アングルの骨組み)だけにしよう、つまり40年前の入居時と同じ状態にしよう、と決めたようである。そのうえで、今後について、改めて大家さんと話し合う、という方向を共有した、ということが読み取れる。そして、12月30日からもう片付け作業に入っている様子なのだ。
今は京都に住んでいる大村益三氏も火事の一報を得て京都から現場に駆けつけて状況を確認し、一旦は京都に戻ったものの、後日再び現場に入って片付け作業に当たっているようである。もちろん、彼らの視野には「アトリエ・トリゴヤ」の再建、「ナミイタ=Nami Ita」の再建ということが据えられているだろう。
とはいえ、焼け焦げた物品の処分にさえも資金が必要だ。
SNS には「義援金」を募る「ナミイタ=Nami Ita」からの訴えも投稿されるようになった。
こんなふうに落ち着かないまま、お正月を迎えると 元旦の夕方にさらにとんでもないニュースが飛び込んできた。いうまでもなく能登半島の大地震である。津波が来るから逃げてください!!! という切羽詰まったNHKの女子アナの声がTVから響き渡り、その後のことは私がここで述べるまでもあるまい。余震は今なお絶え間ないほど続いているらしい。電気、ガス、水などはいまだに回復できていない様子である。
2日の夜にもまた、驚くべき映像がTVに映し出され続けた。羽田空港の滑走路で何かが燃えている、という男性アナウンサーからの情報とともに流されている不鮮明な映像。空港に常時設置されているNHKの固定カメラからの中継映像であろうか。消防隊が燃え盛る大きな炎に対して消火作業に当たっている様子がかろうじて確認できる。
状況がわかるようになるにはしばらく時間がかかったが、それは、札幌からの日本航空機が着陸時の滑走路上で何物かと衝突し炎上している、というのことだったのである。その時には燃える日航機の姿が映し出された。消火作業の様子を含めて現場の映像が中継されているが、超望遠で、しかも夜、映像は不鮮明である。
そんなこんなで、「お正月」という感じがしないまま過ごしていると、電話が鳴って、出ると「福住さんが亡くなった」と長谷宗悦氏が言った。「福住さん」とは福住治夫氏(84歳)。あまりに急なことでまた言葉を失った。
(2025年1月7日、東京にて)
Nami Ita
https://note.com/namiita_2036/n/nf5c4a30ad741
画像
1枚目:「アトリエ・トリゴヤ」
2枚目:「ナミイタ=Nami Ita」入口
3枚目:蓮輪友子 滞在公開制作『THEATER』(2023年1月8日〜2月6日)のうち、2月5日の屋外映画祭「T-IFF」の準備の様子。右側に”スクリーン”が貼られている
4枚目:福住治夫氏(撮影日は10月3日、長谷宗悦個展会場にて)