皮肉にも、梅雨が明けて、ひどかった暑さが一段落した。上野の森美術館を目指す。書家・石川九楊氏の大規模な個展が開催中である。いつもながら、会期終了が押し迫っていた。
会場一階で圧倒された。
一階でまず観客を出迎えたのが、壁に「李賀詩 贈陳商」(1992年)、壁に添った特設の台上に「エロイエロイラマサバクタニ又は死篇」(1980年)。一方がほぼ真っ黒、垂直。もう一方はグレイ、水平。このふたつの作品の対比がすでに何事かを象徴的に物語っているが、いずれも私ははじめて見た作品、それぞれ見応えがありすぎる。
「李賀詩 贈陳商」は、同一サイズの縦長のほぼ真っ黒なパネルが17枚、等間隔に展示されていて、ただちにミニマルアートを想起させられる。「ほぼ真っ黒」というのは、紙の白さがわずかに残っているからで、白と黒とは滲みで繋がっている。よく見れば、真っ黒と思われた黒には豊かな調子が含まれおり、筆の線の跡らしき形状もそこかしこに確認できる。それらは書かれた文字の一部だと推測できるものの、とても判読できない。きっと氏は、ここに書かれた李賀詩は読めなくてよい、というか、墨をたっぷり含んだ筆で白い紙に李賀詩を書いて生じた事態をこそ示したかったのだろう。李賀の詩を書けば滲みが生じ、その滲みはさらに広がっていく。ひろがる黒に飲み込まれていく李賀の詩。紙と墨と水と筆、それらの出会いを読み込んでコントロールする作者。その結果、複雑に絡み合って深みある黒から、文字の一部が貌を覗かせるかのような“逆転”がもたらされる。まさに、混沌のさなかから秩序=文字が生成し始めるかのようなエネルギーを内包する黒。書かれているはずの李賀詩との相乗。
こうした「李賀詩」のシリーズが、会場一階壁には他にも2点、縦長パネル5枚一組の「李賀詩 感諷五首」と、横長で額装された「李賀詩 将進酒No.2」。じつに美しく、一気に作品世界に没入させられてしまう。そして、既に延べたようにただ美しいだけではないのだ。
この豊かな黒は、近作の極細線の黒の並びや交錯と隙間から覗く紙の色とで形成される視覚混合のグレイの複雑な調子の広がりに置き換えて考えることができる。グレイの中に、あるきっかけで文字らしき形状を見出した鑑賞者が、その断片を手掛かりに次々に文字そして文が立ち現れてくるのに立ち会うあの稀有な驚きを思い起こせばよい。黒とグレイ、それぞれのシリーズ群は、確かに同じ“構造”を備えていることに気付けるだろう。見かけの姿こそ異なっているものの、これは同じ仕組みを持っており、氏の一貫性の現れの一つだと言える。
つづく→