またまた会期終了間際になってしまったが、東京駅ステーションギャラリーでの「モランディ展」のことをメモさせていただく。
展示されていたのは約百点。油絵、銅版画、水彩、デッサン、それから写真資料が数点、簡潔なヴィデオ。
モランディはご存知の通りボローニアからほとんど出ることなく制作に集中したといわれる人。モチーフはほとんどが静物。それも瓶や缶などのありきたりなものを台上に並べて描いている。そうした事柄からすれば、なんだかひどくストイックな人のようだが、この展覧会でまとめて見ると、ああ、この人はストイックなのではなくて、絵を描くことが面白くて面白くてたまらなかったんだなあ、ということがとてもよく分かる。この人は間違いなく、セザンヌの最良の“後継者”だ。
形状のキワがゆらゆらと揺れているのは、手の震えではなくて、セザンヌが形状の輪郭線を一本で単純に決定しなかった(できなかった)ことと同じ問題に、モランディが応答したものだ。水彩におけるニジミもまた同様であることに気付いて、私は虚をつかれ、深く感動させられた。また、デッサンが素晴らしい。
人間の目の網膜には中心窩と呼ばれる小さな領域があり、そこで捉えた視覚像が最もよく見える。だから、ものをよく見ようとすれば、自然に視軸が細かく移動する。視覚像もまた細かく変化する。脳はそのことを無視して視覚像が一定に安定するように“処理”している。だから私たちの日常生活に不都合は生じない。ところが、画家は見ることに意識的に取り組む人だから、頭での“処理”と見ている実際との違いに気付いてしまうのだ。であるから、形状の輪郭線は一本で“処理”できなくなってしまう。脳で、まっすぐな線だ、と“処理”される線も、見ることに集中するとまっすぐに描けなくなってしまう。どうしたらよいか?
また、人間の目は中心窩を用いて凝視するだけではない。どこにも焦点を合わせないような見方もするし、見ているようで見ていないこともするし、見ていないようで見ているようなこともする。形も見れば色も見る。隙間も見れば関係も材質も見る。これらは絶えず脳で“処理”され、私たちは日常を送る。
であれば、見るとはどういうことか?これは簡単な問題ではない。
また、ものには奥行きがあるのに、絵が描かれるものの表面には奥行きがない。奥行きのないところに奥行きのあるものを絵具というもので描こうとする。これはどういうことか? これもまた簡単な問題ではない。
セザンヌの描いた形状は奇妙な歪みを持ち、モランディの描いた形状は「重なりの遠近」が曖昧になるようにあえて配慮されているように見える。色彩の、とりわけ調子の微妙な変化の様子にも、セザンヌとモランディには相通ずるところがある。
相通じてはいても、モランディの絵はセザンヌとは全く異なった姿をしている。そこがまた素晴らしい。
筆触にも堪能させられる。決して達者というのではない筆触。モランディの息遣いが聞こえてくるようだ。
この展覧会は、見ることの豊穣さについて改めて覚醒させてくれる。
そして、絵を描くことが面白くて仕方ない人のことを画家と呼ぶのだなあ、と当たり前のことを確認することになる。
じつに面白い。
蛇足ながらひとつ。会場に掲げられていたフォンダッツァ通りのアトリエ内部の写真。それにはモチーフの置かれたテーブルが二つ写っていた。その写真の右側には上から見るとおそらく楕円形の長軸のところで半分にされたテーブル。左側には四角いテーブル。とはいえこちらは、一見すると長方形なのだがちょっと違和感がある。よく見ると、テーブルの奥の方の長さが手前より長いように見える。つまり、歪んだ四角というか台形。写真の手前が下底、奥が上底の台形。こうした奇妙に歪んだ形状のテーブルに瓶などを乗せて描いたから、いくつかの絵にはテーブル面の端部が奇妙な印象を生じさせたのだろうか? それとも、奥に広がったテーブル自体が、モランディのセザンヌへの深い敬意の表れ?それとも私の見間違い?確認しようにも、カタログに掲載されたアトリエの小さな写真図版からは、そのテーブルの形状の判別ができない。どなたかモランディのこのテーブル=モチーフ台についてご存知の方がおられるなら、ご教示いただければ幸いである。
(2016年4月9日 東京にて)
つづく