福住治夫さんは『あいだ』の編集長である。昔は『美術手帖』の編集長だった。
その福住さんが、長谷(ハセ)の個展に行かないか、と誘ってくださった。長谷というのは彫刻家・長谷宗悦(はせむねよし)氏、富士山の裾野の一角にアトリエを構えていて、個展はそこで行われていた。
私も長谷氏とは旧知の仲であるが、福住さんと長谷氏とは、随分以前からのお付き合いがあったらしい。長谷氏は、若き日の福住さんも若き日の福住さんの奥さんもしっかり記憶している、泊めてもらったから、と言うのである。私は、ある書物に掲載された写真図版で若き日の福住さんの姿を知っているのみで、若い福住さんを知らない。福住さんの奥様とは、7〜8年前に福住さんが病気療養していた時に初めてお目にかかり、顔見知りになった。
そんなわけで、長谷氏が、富士山麗に福住さんご夫婦を”招待”したものだろう。その”招待”を受けて、福住さんは私を誘ってくださったのである。
私は、福住さんからのお誘いに、ただちに、行きます行きます、と返答して、10月3日(火曜日)の午前、東京新宿「バスタ」から「小田急ハイランド」まで、「富士五湖行き」の高速バスに乗り込んだ。気持ちよく晴れた日だった。
長谷氏は、30年ほど前に富士山の裾野にアトリエを構えた、と言うのだが、最近まで私はそんなことを全く知らなかった。何年かのロンドン滞在から帰った長谷氏は、そのアトリエで毎年個展を開催するようになったから、最近アトリエを構えたのだろう、と思っていた。
そのアトリエでの個展の案内がはじめて届いた時にはびっくりした。びっくりして、思わず福住さんに、長谷の個展に行きますか? と尋ねてしまった。なぜ福住さんに尋ねたか、というと、長谷氏がロンドンに行くことを私は福住さんから聞いたのである。その時、福住さんは病気療養中で病院のベッドにいた。ちょっと見舞いに、と訪れた私に、ついさっきまで長谷が来ていた、と福住さんは言って、長谷氏のロンドン行きを教えてくれたのである。そのことが印象深くて、福住さんなら富士山の裾野まで行くんじゃないか、と思ったのだ。福住さんは、行かない、と言った。で、私も行かなかった。
以来、長谷氏から個展の案内を貰うたびにずっと行きたかったのだが、遠さのせいもあって、訪れることはできなかった。福住さんも同様だっただろう。毎年、長谷氏の個展が終わって、ああ行きたかったなあ、と思っていると、長谷氏はその個展の成果をまとめた冊子を送ってくれた。その都度、ああ、行けばよかった、と思った。
今年の確か梅雨の頃、福住さんから、長谷が息子とやってくる、と聞いた。私も行っていい? と尋ねると、もちろん構わない、他の人たちもやって来る、と言った。
その日は、あいにくひどい雨の日だったが都内某所に行った。長谷氏と息子さんに会いたい、という人は私の他にもいて、なんだかとても満ち足りた時間を過ごした。その時、私は、今年こそは個展を見に行きたい、と長谷氏に言っていたのだが、その後、今年の個展の案内をもらって、いざとなると“現実”というものの大きな“壁”の前でたじろいでいた。そこに、福住さんからのお誘いがあったのである。“わたりにふね” というヤツだった。
乗り込んだバスには中国人観光客がいっぱい。1台目のバスの満席を受けて運行する2台目のバスだったのにそれも満席だった。福住さんご夫婦とは離れた席だった。
「富士急ハイランド」のバス停に辿り着いてバスを降りた。遅れて下車してきた福住さんご夫婦と合流したと同時に、長谷氏が現れた。車でやって来て待っていてくれたのである。
あとはもう長谷氏まかせ。
食事をして、富士五湖を案内してもらい、雲で見えない富士山の裾野だけを眺め、樹海を突っ切り、旧オウム真理教本部跡地近くの牧場地域でもう一度富士山の裾野だけを眺め、個展会場の長谷氏のアトリエに連れて行ってもらった。
車から降りて、中に踏み込んだ長谷氏の個展会場のアトリエは、むっちゃ広くてびっくり仰天だった。毎年送ってくれる展覧会の冊子の写真図版から想像していた以上の広さで、広いだけじゃなくて、とっても綺麗にしていて、これにもびっくりしてしまった。
もう少し正確に書く(打ち込む)と、仕事場でもある展示会場が広いのも、綺麗にしているのも、作品が展示してある様子も、同時に目に飛び込んできたから、いまここで、いったい何が起こっているのか全く判断も何もできない、というような事態が生じたのだった。目の前にたくさんの古びた木の板が立っている、ということが理解できるだけでもしばらく時間が必要だったのである。
垂直に立てられた古びた板は、大部分が厚みのある立派なもので、大小ざっと50〜60枚ほどもあっただろうか。古びた板、と書いて(打ち込んで)いるが、その古び方も状態も、高さも幅も厚みも形状もまちまちで、ともかくたくさんの板なのである。それらの多くは成人の背の高さを超えていて、一部に柱材も含まれていた。床へ接地する面だけは垂直に立てるための水平面が形成されるようにノコギリを入れてあるように感じられるが、他の面にはあえてノコギリやノミなどを入れていないように見える。それらの板や柱材が、全て入り口側に(つまり鑑賞者の側に)“正面”を向けて直立しているのである。
手前は相対的に背の低い板。とは言え、それでも多くは成人の背の高さ以上はある。奥に行くに従ってさらに高くなる。手前の領域に立てられた板や柱材どうしは、ある程度の間隔を持って立てられているから、中に入り込むこともできた。奥の方の感覚は密になるから、入り込むことはできない。そうしたわずかな秩序を感じることができる。
板たちがただ下方の断面だけで床に“安全に”立っているはずはない。床と接地するところには細工が施されていて、万が一の揺れが生じて重心が多少前後したとしてもある範囲内におさまるように配慮されている。その細工は実に素朴になされているが、それゆえにかえって細やかな配慮のありかが伝わってくる。
ある板はその表面の一部が焦がされている。ハゲかかったペンキの表情が豊かな板もある。長い間外の空気にさらされてその表面が独特な表情を持つに至っている板もある。打ち込まれたクギが並ぶ柱状のものもある。実に多様な表情の板や柱材である。それら一つ一つの来歴まで分け入りたい、という気持ちも生じてくるが、視線はそれらの表情豊かな板の表面と板と板とのあいだをさまよい続けて、正直どこに焦点を合わせればいいか分からないままである。圧倒的な分量が迫ってくる場、という感じでもない。全体の分量はたっぷりあるのだが、重さは感じず、優しい感じである。
ふと視線を逸らして壁を見ると、壁に藤井匡氏が書いた文章が掲げられている。「彫刻の主題をめぐって人体と風景と:長谷宗悦の自然」というタイトルの文章である。今回発表された作品が、左右の対称性と連続的に後退していく奥行きゆえに、人体とも風景とも感じられる、と言うのである。そのことは「西洋的」と「日本的」ということにつながる、とも言うのだ。
人体は「西洋的」か、風景は「日本的」か、それは私には判然としない。しかし、この作品がたくさんの人体にも見え風景にも見える、という感じ方には同意できる。
壁を隔てた次のスペースに移動すると、さまざまなオブジェが「やじろべえ」を共通項にして床に配されていた。あるものは、つい今しがたまで子供に使われていた玩具のようであり、あるものは、どこかで拾得した表情豊かな道具や廃物のように見える。それらを「やじろべえ」と共にたくさん配しながら床上に構成している。カラフルでポップな色彩が目に付く。いくつかの“かたまり感”というか”まとまり感”があるが、それらひとつひとつが単独の作品に見えることは注意深く回避されている。
先の文章の中で藤井匡氏は、この作品の中に既製品のハンガーが使われていることに注目して人体への連想についても書いていたが、私にはそのような印象は生じず、私の視線はこの作品でも定まることなくさまよいつづけた。
さらに奥へと進むと、右側に最初のスペースで直立していた古びた板の最後方部の背の高い板の裏側がほぼ横一列に連なって、一枚一枚の板に、薄い白い布が丹念に貼り込まれて壁のような面が形作られていた。結果、もう一つの小ぶりなスペースができていたのである。そのスペースの既存の二面の壁、そこに一つずつ、ビニールを用いた2点のレリーフがあった。
レリーフと書いた(打ち込んだ)が、厚手のビニールを何層にも重ねて壁に留めたほぼ平らな構造体である。壁に影を落としたり、表面に周囲を映し込んだりして、とても複雑な表情を帯びている。絵画的にも見えるが、やはり彫刻家が為したレリーフというべきだろう。確かに形状は透明で平らで見えずらいが、それゆえになお、めくれながら回り込む断面や、ピンにかかっているだろうビニールの重さの感じやビニールの手触り感など、物質感が強調されてくる。面白い作品だ、と思った。
個展の見物後、しばし団欒して、失礼することになって、長谷氏の奥様と息子さんに見送られながら私たちが乗り込んだ車が発車すると、運転席の長谷氏はなんと(!)そのまま東京まで車を走らせ続け、都内某所で私たちを降ろすと、そのまま今度は富士山麓に向けて車を走らせて去って行ったのである。福住さんご夫婦への配慮であろうが、便乗していた私はなんと言って感謝すればいいか、分からないくらいだった。お土産までいただいてしまった。
夢のような一日だった。