長谷氏の個展を訪れてから数日後、10月7日。東京藝術大学美術館でのこれも旧知の林武史氏の「退任記念展『石の勝手』」を訪れた。林氏は藝大の彫刻科で長く専任教員を務めてきて、来春で退任なのだそうだ。一貫して石を素材に作品制作を続けてきた人である。
この日訪れたのは、午後に「僕たちの時代」というトーク・イベントがあったからで、開始時間ギリギリに滑り込んだ。トークに登場したのは、中瀬康志、丸山富之、松井紫朗、そして林武史の各氏。松井氏は京都からの参加であった。ほぼ同世代の、それぞれ個性的で魅力的な仕事をする四人が、林氏の司会でいろいろ語る様子はなかなか興味深かった。中でも、学生時代の話。
当時の芸大油画専攻の“学生作家”たちが積極的に発表していた「インスタレーション」が、彫刻科の学生たちに与えた影響の内実については、当事者でなければ語り得なかったことであり、貴重な証言になっていた。また、「フジヤマゲイシャ」展として結集した東京と京都、あるいは関東と関西とのつながりの話もあまり語られてこなかったことであり、印象に残った。中瀬氏が、学生時代に佐藤時啓氏や橋本夏夫氏らと「自主ゼミ」をやっていた、という話も興味深く聞いた。さまざまな話題を経て、トークの最後に、林氏が、氏のアトリエのある岐阜県でこれから行われるトンネル工事で出る大量の土や砂や石で大かがりな作品を作ってみたい、という話をして、おお! と思わせてくれた。
その日はトークが終わってから私にあまり時間がなく、後日また出直すことにしたのだが、その日、出品作をざっと見て、私が引きずって帰ったのは、今回の展覧会のメインの作品と言っても良いだろう「水田」という作品のこと(もちろん他にも多数の作品があって、一つ一つが興味深いものであったが、「水田」に話を絞っていく)。作品「水田」が、多数の石の板を用いた「インスタレーション」の様相も呈していたからである。多数の石の板は、一見控えめには見えるが実は相当に手を加えたことが明らかなのだが、それらを床に並べて立てて置いてある。そこのところで、「彫刻」なのか、「インスタレーション」なのか、どちらかに決めつけなくてもでもいいのではないか、、、というようなこと。
数日前に長谷氏の多数の木の板の作品を見たこともあっただろう。
長谷氏は床に木の板を縦に垂直に立てていた。木の板といっても非力な私のようなものには持ち上げることができない厚み、大きさのものが大半である。林氏は床に石の板を横長になるように垂直に立てていた。もちろん、どの石の板も、私ごときが一人で動かせる重さではないだろう。木の板と石の板、縦長と横長、という違いは確かにある。あるが、床に直に垂直に立てる、というところなど、共通するところも多い。「板」という単位の一枚一枚は互いに独立していて相互を繋いでいない。床から「立てる」のみで、固定していない。「板」に手を加えていないように装っても、実は周到に準備してある。など、、、。二人の違いと共通点を手がかりにすれば少しは解けるかもしれない、そんな重い宿題を持って帰ったわけである。
10月12日、再び会場を訪れた。会場にいた林氏と話もできて、大事なことが分かった。それは、林氏が作品の配置の状態を図面として残している(残そうとしている)ことである。作品配置の図面を残すことは、以下のようなことを示しているだろう。
林氏は「水田」と名付けた作品を形作るために、あらかじめたくさんの石の板を準備した。「背板」という大きな石の両サイドだから一枚の「背板」は大きい。それを何枚かに細長く分割して、その分割した板は同じ列に並べて立てる、と決めている。床と接する(だろう)面をカットする。そして何枚かに分割する。その上でタガネやノミを当てるが、「背板」だった外側の面には一切手を加えず、観客が出会う(はずの)動線の向こう側を向くようにすることは決めてある。「絵」のようにさえ見えるまでに周到に手を加えた)それら多数の石の板を展示会場に持ち込んで、横長に床に立てて配し“位置決め”をしていった(はずである)。その時は確かに「インスタレーション」の“手法”で取り組んでいたのかもしれない。しかし、床上の石の板たちの位置が確定した時、厳然たる「彫刻」として「水田」が完成したわけである。だから、図面化が必要になる。
言い換えれば、作品を形成する個々の石の位置、それら相互の関係は、もう動かさないし動かすこともさせない。今後、どこか違う展示場(あるいは特定の場)にこの「水田」という作品を設営することになるにしても、図面に基づいて同じ石を同じ位置に置くことができる。場は変化しても、作者の林氏が介在しなくても、「水田」という彫刻作品ができる、ということである。それが図面を起こすことの意味だろう。言い換えれば、「水田」はインスタレーション作品ではなく、彫刻作品だ、ということである。
一般に、「彫刻」は作品全体が物理的につながっていて、その“部分”は動かないし動かせない(取り外しなどができるような場合でもそれが目立たないように作られる)。そうした「彫刻」という造形物がその造形物ならではの「空間」を生成する。だから「彫刻」はどこにでも移動できて、どんな場に設置しても、ある「彫刻」はその作品特有の「空間」を生成する。それが「彫刻」という形式の特徴である。だから、「彫刻」には、恒久性のある石、金属、木、樹脂などが用いられる。
これに対して「インスタレーション」は、屋外、屋内を問わず、作品を展示する場が最優先である。場が違えば、同じ素材を使っても同じ造形物を使っても、作品の様相は変化する。つまり、場への即応性そのものがいのちなのである。ある期間だけイキイキとしていればよいという仮設性が「インスタレーション」の特徴である。恒久性のある素材を選ぶ必要がない。
そうした違いを踏まえれば、林氏が学生だった1980年代初頭、7日のシンポジウムで話題になっていたように、芸大の彫刻科の学生たちに、「インスタレーション」が驚異や刺激を与えた、という発言は理解できる。具体的には、川俣正、田中睦治、保科豊巳、千崎千惠夫、鹿沼良輔ら各氏(1975年度油画科入学の学生たち)の仕事が震源となっていた。もちろん、彼ら以前にも今なら「インスタレーション」と呼ばれる(はずの)作品を作っていた人たちを列挙できる。が、当時は「インスタレーション」という言葉がなかった。「布置」という言葉などが使われていたのではなかったか。今では、画家も彫刻家も、作品発表時には、誰もが当たり前のように「インスタレーション」の要素を取り込んでいることを考えると、隔世の感がある。
彫刻科の学生たちが「インスタレーション」と言う用語と手法を強く意識した時代。それは「パフォーマンス」という用語の登場とほぼ同じ時期だったような記憶もある。「パフォーマンス」という言葉は、今では、何かの仕草や振舞いを揶揄する時などに、普通に使割れるほどに”慢延”している。また、「アート」という言葉が「美術」という言葉にとって変わり始めたのも同じ時期だったように思える。さらにまた、同じ頃、主に自作自演で歌をうたう人が「アーティスト」と自称するようにもなった。こうした一連の現れは、今考えると、絵画、彫刻、デザイン、工芸、というような従来の枠組みの揺らぎを示していた。わたしたちの世代やそれより少し若い林氏たちの世代は、誰もがその渦中にあったわけである。
長谷氏が今回の作品をアトリエに設営した後、図面を作成していたかどうか、確認していない。
だが、今回の作品に限らず、イギリスから帰国後の長谷氏の作品が「インスタレーション」の側面を強く押し出してきていたことは明らかだった、と私は思う。帰国後最初の個展では、黒いゴミ袋を大量に使っていた。ただし、その使い方はやはり彫刻家ならではの使い方だった。渡英前の長谷氏の作品をつぶさに見てきたわけではないし、かつての長谷氏の作品の記憶もすでに曖昧だが、彼の作品は、当初から木を用いた大変独特な作品であった。圧倒的な物量感を備えた時のそれは、まさに「彫刻」としか呼べないような、しかし一風変わった作品だったと思う。確か、ボロボロの木端(こっぱ)のような木を用いて、すぐにでも壊れそうなたたずまいの作品もあったが、その場合でも、木端相互は物理的にきちんと止められて(留められて)いて物理的に揺るぎなかったし、全体も細部も、明らかに彫刻家の仕業だ、と感じてきた。絵画出身の私のような者が作る“立体”とは、明らかに質が違っていたのである。
今回、直接まみえることができた直立した木の板や柱材が多数並ぶ長谷氏の作品を、「インスタレーション」と断定するのは早計である。並べる、ということだけでも、彫刻家がする“並べ方”というものがありそうだし、逆に、あえて「彫刻」的な“気配”さえをも消し去ってしまいたい、と願う彫刻家の問題意識があって、それが“並べる”という方法を選ばせているのかもしれず、それゆえに一見「インスタレーション」のような表情を示しているのかもしれない。そこが読みきれない。私の視線が定まらなかったのはそういうことなのではないだろうか。
林氏の作品「水田」についても同様である。一つ一つの石の板に手をかけていることはもちろん、石自体の“発言力”が強いので、独特の感触がある。石で水を想起させようとする試みも、そのタイトルもあって成功している、と思える。
興味深いのは、この二人の作品が「風景」ということで、ある共通項を得ようとしていたことだ。「風景彫刻」というようなものがあるかどうか知らないが(いくつかの作例は頭に浮かぶが)、私たちには、水石のように、自然石の形状や色や肌理からさえ風景を見出し、これを愛でる”風習”があったりする。「風景」が孕むものは奥深そうだ。