なにせ面白いのは、構造物が大きくて(大きすぎて)一人の力では動かせない、動かすには多くの人々の協力が必要だ、ということである。ゆえに、加藤氏の“引き倒し”は、その都度ある種の祝祭性を帯びる。
ここで私が想起するのは、つい数ヶ月前、誰に頼まれたのでもないのに勝手に私が編集し、勝手に発行した私家版冊子『藤原和通 Ⅰ 1970〜1974[音響標定]』で扱った故藤原和通氏(1944〜2020)の巨大音具とそれを用いたコンサートのことであった。
トータルセリエールとかの作曲技法をはじめ現代音楽の素養をきちんと身につけた藤原氏は、れっきとした音楽家だった。その意味では、加藤氏とは発想の出所が違う。藤原氏の場合、音楽ではなく、音を求めて音具(発音道具)を考案することになった。その音具はどんどん巨大化したのだが、それは演奏者と聴衆とが峻別される「コンサート」という形式への批判もあってのことだろう。藤原氏の巨大な“石擦り音具”の取っ手を押して音を出すには一人では到底動かない。だから多くの人々が一緒になって取っ手を押して動かすのだが、そんなふうに音を出すことはそれぞれがその音の振動に取っ手で触ることでもある。演奏者と聴衆との区分はなくなる。おそらくそんなことを考えてのことだっただろうと私は思っている。藤原氏のコンサートは、あちこちの街の中で“自由参加”で繰り返し行われた(こうした藤原氏の当時の活動は今や忘れ去られたかのようで、私はとても残念である)。そういうわけで、藤原氏の巨大音具によるコンサートもまた祝祭性を帯びていたのだった。加藤翼氏と藤原和通氏とでは“引く”と“押す”との違いがあるものの(ロープや紐は押しては使えない)、二人の共通項=音具や構造物の巨大さ、それゆえの祝祭性ということに思いを馳せながら興味深く見た。
加藤氏の“引き倒し”は、2011年の震災を契機に“引き起こし”=“引き興し”への変容を含んで続けられているようだが、それに加えて興味をそそられたのは、加藤氏が音を積極的に扱うようになってきていることだ。加藤氏の場合、音というより音楽と言ったほうがいいかもしれない。
ロープやゴム紐を演奏者同士へのダブルバインドの“拘束具”として用いることで、アメリカ国歌や君が代の演奏を不自由極まりないものにし、結果、元の旋律やリズム=国歌なるものを解体させようとしたり、地中に住まう動物の巣穴に鈴を仕掛け、動物の習性やその行動にまかせた鈴による“演奏”を実現し、それを録音録画して作品にしたりしている。加藤氏によって、この方向は今後どう展開していくだろうか。音楽家たち、サウンドアーティストたちには、すでに多くの蓄積があるわけだが、、、。
岩場に打ち上げられた鯨にロープをかけて、男たちが海に浸かりながら岩場から鯨を“引き”出そうとする映像の出品は、ムサビの卒業制作からの多人数で“引く”という共通点を考えてもなお、違和感が残ったが、メモするにとどめておきたい。
とはいえ、“ソーシャルディスタンス”を「見える化」しようとする近作など含めて、現在進行形の加藤氏の姿を飾り立てずに見せてくれているのは嬉しい。
もう一つ、映像そのものについても述べたい気もするが、別の機会に。
(2021年8月28日、東京にて)
加藤翼 縄張りと島
Tsubasa Kato: Turf and Perimeter
●会期: 2021年7月17日[土]―9月20日[月]
●会場: 東京オペラシティ アートギャラリー[3Fギャラリー1, 2]
開館時間: 11:00 ─ 19:00(入場は18:30まで)
休館日: 月曜日(祝日の場合は翌火曜日)、8月1日[日](全館休館日)
入場料: 一般1,200円[1,000円]、大学・高校生 800円[600円]
中学生以下無料
公式hp:
http://www.operacity.jp/ag/exh241/j/visitus.php