大事な用事があったので、北海道に行ってきた。
私はJRに縁もゆかりも利害関係も何もないが、「大人の休日倶楽部」というのがあって、私どもは夫婦で“会員”である。吉永小百合さんがCMやポスターに登場するアレだ。その「休日倶楽部」メンバーを対象に五日間乗り放題の格安チケットが販売されているのを家人が見つけたのである。家人は、このチケットなら用事が済んだら鉄道で北海道のどこにでも移動できるでしょ、と言った。北海道までの行程も割引対象だったので、ふだんなら飛行機にするところだが、えいっ、と新幹線に乗り、青函トンネルをくぐり、在来線にも飛び乗って、用事を真っ先に済ませるべく頑張ったのであった。
用事を終えて“自由”になった次の日は、「台風13号」の影響で北海道にも断続的に土砂降りが襲っていた。ならば屋根のある「ウポポイ」に行ってみようではないか。ずっと気になっていたし、傘も持ってきたし。
白老(しらおい)駅に降り立つと、ちょうど雨は小降りになっていた。駅も駅周辺もとてもきれいに整備されていて驚いた。件の用事のために訪れた倶知安(くっちゃん)、各駅停車の乗り継ぎのために生じた時間を駅から海まで往復しながら駅前の様子も見物した長万部(おしゃまんべ)、宿をとった登別(のぼりべつ)。これらの駅前の寂れた感じに比べれば、白老は国立の「ウポポイ」が開設されたからだろうか、別格といえるほどの整備のされ方だった(倶知安などは数年後には北海道新幹線の停車駅になるそうだから、時を経ずどんどん整備されていくのだろう。それが良いことなのかどうか、私には分からない)。
白老駅から「ウポポイ」までの遊歩道では、雨がほぼやんでいた。遊歩道の脇の野草たちが瑞々しかった。可愛らしい花々でいっぱいの野草もあったが、名前がわからない。朝ドラの「万太郎」のようにはいかないのである。
遊歩道が終わって、今度は幹線道路沿いを進む。車の行き来が多い。「ウポポイ」は道路の向こう側。が、歩行者が横断するための信号機がない。かわりに(?)人々が道路を横断するあいだ車をとめていてくれる交通整理の年配の男性が旗を持って控えてくれている。安心して道路を渡ると、「ウポポイ」の敷地入り口にも年配の男性が控えていて、こっちです、と案内してくれた。
「ウポポイ」敷地内の、最初のアプローチに設営されているコンクリート製の壁の構成に意表を突かれた。特別な場所へと誘われている感じが巧みに演出されている。コンクリート壁の表面には、北海道の原生林に入り込んで動物や鳥たちに出会ったかのような画像がかなり精巧に仕込まれている。勉強不足で、どうやってこの画像を作ったものか、わからない。わからないが、壁の上部に姿を見せるまだ小さな樹木が、やがて大きく育ってコンクリート壁と絶妙なコントラストを作り上げるのだろう。
入場券を購入して、「国立アイヌ民族博物館」の入り口でビニール袋をもらって中に濡れた傘を収めた。一階にショップ。エスカレータで2階に上がると、大きな窓からポロト湖を含む辺りの景色が一望できる。しばらく堪能ということをして展示室に向かうと、多様な北方民族の人々が映像で出迎えてくれる。彼らの中からアイヌの男女が出てきて、展示場入り口まで案内してくれる。映像が観客の動きに同調するので驚いた。
展示室は、広い。陳列のための什器が多数配されている。確か立派なイナウから始まっていたが(私はそこから見始めただけのことだが)、六つのゾーンに区分されていた。世界=精神文化、くらし、ことば=アイヌ語、歴史、しごと、交流、の六つがそれだ。それぞれ見応えがある。イナウをはじめ儀礼の道具、衣服、食、住まい、音楽、舞踊、子供の遊び、狩猟・漁撈・農耕・採集のための道具、板綴舟に代表させた周辺諸民族との交流についてなどが手際よく展示されていて、ワークシートなどの配慮も行き届いている。
「しごと」のゾーンの、ビデオモニタに映し出されたある映像で足が止まってしまった。
モニタの中で野ウサギ、イタチを捕獲するためのワナづくりを実演している人が、なんと姉崎等さんだったのである。「姉崎等さん」とか書いて(打ち込んで)いるが、お目にかかったことなどはない。しかし、ちょっとした関わりがあったのである。そのことがありありと頭に浮かぶ。
昔、京都の学校に勤務していた頃、何かの用事で訪れた札幌で、「サッポロ堂」という札幌駅北側の古本屋を訪れた。書棚だけでなく、入り口から奥まで床から本が積み上げられており、それらが全て北海道や北方文化圏に関連したもので、人一人がカニのようにしてかろうじて店内を移動していける、そんなすごい本屋さんだった。何冊か買い求めた中に『クマにあったらどうするか』という本があった。夢中になって読んだその本が姉崎さんの本だったのである。現在はちくま文庫に入っている。
同じ頃、その学校の同僚=中路正恒さんが、飛騨高山に通って高山の猟師=橋本繁三さんからクマ猟のことを教えてもらっている、ということを知った。中路さんに、その橋本さんはクマの頭骨とかをどうしてるのかなあ、と興味本位に尋ねてみると、数日後に、フジムラさんのことを電話で話したらちょうど手元にあるからあげるって橋本さんが言ってる、と教えてくれた。え? ほんと?
そのしばらく後、中路さんが、春の連休の時に高山の橋本さんのところに行かない? と誘ってくれた。高山駅の駐車場で待ち合わせて中路さんの車で橋本さんのところに行った。中路さんが連れて行ってくれたからだろう、橋本さんは私を歓迎してくれて、ほら、これ、と頭骨を下さった。とても状態の良いきれいなクマの頭骨だった。驚くやら恐縮するやらして、でも、ちゃっかり頂戴して、大事に抱えて帰った。今も私の宝物だ。
クマに限らず、鹿やイノシシなど大きな獣を狩る時は、複数の狩人が協力するのが普通である。ところが、姉崎さんも橋本さんもそれぞれ単独で、こともあろうにクマ猟を続けてきた稀有な人だった。それゆえ、クマの生態、周囲の環境などの事に日頃から人一倍気を配っていて、素晴らしい知識や知恵を身につけている。姉崎さんは、クマは自分の師匠だ、と本の中で言っている。姉崎さんの本を夢中になって読んだのはそれゆえだっただろう。橋本さんの話も実に面白いものだった。橋本さんのところには、その後も中路さんの車に便乗して何度か伺ったし、1日かけて山の中を案内してもらったこともあった。橋本さんの身のこなしに驚嘆した。
そのうち中路さんと話をしていて、姉崎さんと橋本さん、この稀有なお二人が顔を合わせる機会があるとすてきだなあ、と夢見るようになったのは自然なことだった。そして中路さんの協力も得て夢の実行に踏み出したのである。
私に北海道出張があった時、札幌のウタリ協会を訪ねて姉崎さんについて情報をもらうことから始めたが、橋本繁三さんが高山から姉崎等さんの住む千歳を訪れることにして、橋本さんには中路さんが同行し、サッポロ堂の石原さんとライターのみかみめぐるさんが千歳で同席してくださった。私は、なんということでしょう、どうしても離れられない大事な仕事がその当日に生じてしまって、結局、お二人の対話の場には行けなかった。とても残念だった。
対話の内容を書物にまとめる、という計画だったが、いつの間にか立ち消えになった。どういう経緯だったか、記憶から失われてしまっている。姉崎さんも橋本さんもすでに亡くなってしまった。サッポロ堂はいつの間にかなくなってしまい、みかみさんとも連絡が途絶えてしまった。中路さんはふいに拙宅を訪ねてくれたりしている。
姉崎さんとの関わりとはそんなことである。ともかく、時を経て「ウポポイ」で初めて姉崎さんに“お会い”できた。感慨深かった。
「ウポポイ」とは、大勢で歌うこと、という意味だそうである。この施設には「民族共生象徴空間」という別名があって、複数の施設の複合体である。「国立アイヌ民族資料館」「工房」「伝統的コタン」「体験交流ホール」「体験学習館」「慰霊施設」。ここを訪れた人は、これらの施設でさまざまなやり方でアイヌについて学ぶことができる。誕生して間もないので、今後にも注目したい。
「ウポポイ」で刺激されてしまったので、晴天=カンカン照りになった次の日は登別市街を日陰を求めながらさまよい歩き、なんとか「知里幸恵 銀のしずく記念館」を訪れて長い時間を過ごした。それだけでは気が済まず、富浦墓地までテクテク歩いて、知里幸恵の墓と金成マツの碑を訪れ、さらに登別温泉・地獄谷を見物した。「知里幸恵 銀のしずく記念館」では思いがけない展示物に目を見張ったが、中でも知里高央(ちりたかなか)氏の残した資料をもとに作られたという分厚いアイヌ語辞典が展示されているのを見て感動し、なぜかしら安堵した。
というのも、私の恩師の一人というべき石川浩(いしかわゆたか)さんから、「石川先生」の江差高校時代の同僚で家が隣だった「知里先生」が突然亡くなった時のことをたびたび聞いていたからである。「石川先生」は「知里先生」のお嬢さんに残された調査資料をまとめることを提案したが、お嬢さんは、あんな調査をしなければ父は死なずに済んだ、そんなことはどうでもいい、と叫んで強く拒まれた、とのことであった。実は、その後、有志たちが貴重な資料をちゃんと分厚い一冊の書物にまとめていた、ということを、私はこの日「知里幸恵記念館」2階の展示室で知ることができたのである。「石川先生」は、「知里先生」が亡くなってから時を置かず、北海道教育委員会によって十勝の池田高校定時制へと強制的に配転させられたので、この分厚い辞書のことを知らなかったのだろう、と感慨深いものがあった。
知里高央さんがつげ義春の『ねじ式』の一場面に登場していることは以前ここに書いたことがあるが、知里幸恵、知里高央、知里真志保、そして金成マツ、、、。確かにすごい一族である。
北海道からの帰路、函館の北方民族資料館に立ち寄った。函館は何度も通過したが降り立ったのは初めてだった。というわけで、“アイヌづくし”の日々になったが、函館の市電に乗れて実に嬉しかった。
新函館北斗駅から東京駅まで四時間。知らなかった。
(2023年9月13日、東京にて)